少女は上空から窓を開け、舞い降りた。 ひらひらとスカートが舞い上がる。軽い足のりでバルコニーへ着地すると、少女は真の姿へと戻った。 真紅の長方形のテーブルに並べられた多くの書物を次々と棚へ戻していく。 テーブルの反対側を向く。左にテレビとその上に小鉢が置かれていて、そこからアイビーがたれている。テレビの前には、たくさんの、高価なイメージを漂わせる布が散乱しており、少女はそれを掬い上げた。そしてテレビとは反対側にクリーム色のソファーが一つ置かれていて、そこに布を置くと、その上に座り込んでしまった。次第にツルツル感ある布の摩擦で少女は床に落ちてしまった。 「……ワザと落ちたのではありませんから。本気でもありませんから」 と先ほどの行動を笑われたくないとでも言い訳しているように聞こえる少女の口から出た言葉。 「聞いていますの? 言っておきますけど、見えているんですから、姿を現されては如何です!」 すると、少女の視線の先から、宙に水のようなものが出てきた。それは丸い円を描いていて、次第に大きくなっていく。 ≪そのように仰らなくても・・・フフッ。そなたの日常を監視しているのではございませんのですから≫ 年のいった老婆のような声をしたその主は、まるで嘲笑うかのように囁きかける。次第に少女の感情が、怒りが寸前にまで上っていく。 上目遣いで睨むように、その宙に浮かぶ丸い水に向かって…… 「監視しているのと同じだわ。父上から警告されたはずよ? 勝手に行動されたのでは困ると……。どこまでもしつこいようですね、貴方は」 ≪ホッホッホ……そなたに警告しに来たのでございますよ≫ 「あたくしに?」 少女はますます怒りが大きくなってきているが、老婆らしき主の一言に、疑問の目を向け始めた。 ≪いまだ土星の女王を見つけられないようですな。早くなさらなければ、時間が来てしまいますぞ? オッホッホ……≫ 「わかってるわ。でも、今のあたくしではわからないんですもの! それに、そんなに時間がないという訳ではないはずですわ!」 ≪如何でございましょう? 確かに時間はありますけれど? 貴方様の能力の審議を問われる……かも知れませぬから……≫ ――あたくしの、能力? と少女は眉を顰める。 ≪おやおや。理解が乏しいようで。女王になるということがどれくらい難しい事か、理解なされて無いようですわ……≫ 少女は机をバンと叩いた。その衝撃で手の平に痛みを感じ始め、それは大きくなっていく。しかし、今の少女にそれはなんでもない痛みだった。 「だからこうして知識を身につけている! それのどこがおかしいのです!」 ≪土星の女王よ……忘れなかれ。 そなたの今の力では到底もう一つの土星の女王に勝つ事は不可能よ。それは勉学ではない。魔術なのだ。 土星の女王よ。向かいは目覚めようとしている!≫ すぅーっと消えていった水。 少女の怒りは収まるどころか、次第にあの学校で起こったこと、その中にいたメンバーの中の一人を思い出し、浅い笑みを作った。 「運命は変えて見せますわ、必ず! あの方の手に渡しはしませんわ」 少女の付近から、黄色のオーラが彼女を包み込む。 そしてその黄色のオーラと共に、少女は姿を消した。 ソファに敷いていた布が全て垂れ落ち、それは輝きを受けながら光っていた。
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運動場の隅……サッカーゴールのあるところに、ベンチが置いてある。 そこに賢一は座っていた。 左手で首にかけられている銅のネックレスをじっと見つめ、ため息をつく。 中学校の頃に、恵美子に告白し、その週の日曜日にお揃いのネックレスを買った。それを今でも大事に持ち続けている彼。彼女を一番大切に思っているという証でもあった。 しかし、前にあった出来事での、気持ちのすれ違いと誤解が、2人の溝を深くしていっていた。しかしお互いが信頼を薄くさせようとしているのではなく、あまりにも一緒にいた時間が多いと感じ、一時離れようと話し合った結果。 恵美子は無表情でそれを理解した。そしてお揃いのネックレスを交換した……と思っていると、恵美子は「2つとも持ってて欲しい。別れるってわけじゃないってわかってる。でも、それを持ってると別れちゃいそうで。自らそれを捨ててしまいそうで!」 そしてその時賢一は恵美子を引き寄せ強く抱きしめた。 「愛してる」 弱々しい賢一の声は、そのまま恵美子の耳に入っていく。恵美子はそれを戸惑いの中受け止めると、小さく頷いた。 まさか、あの事件で大きく溝が出来るなんて…… あの時知る芳も無かった、今の関係。 ぎゅっと二つのペンダントを握り締める。握り締めた手から、どんどん力が漲る。 しかしその力は、ため息と共に弱々しくなっていった。 「賢一さん?」 ハッとして、すぐさま振り向いた彼。声をかけた主、瑞希はその咄嗟の彼の行為に少々驚きを感じた。 いくら恵美子との今の関係を知っているとしても、ここまで彼らを追い詰めていると、あの事件が彼らの関係に溝を作ったということに、悲しみが出てきた。 「……先輩、だろうが」 「せ・ん・ぱ・い。どうしたの? 一応さんってつけてるのに……。先輩は嫌だって、言ったからそう言ったのに。ま、いいや。これ、恵美子さんから」と小さなトートバッグを賢一に渡す。え? と賢一は意外な気持ちを表している顔を瑞希に向けた。 「心配なんだって。いつも遠くから見つめてるって。本当はちゃんと話し合いたいって。でも、いつまた喧嘩口になるか分からないから、もう少し今のままでいようって。賢一さんを嫌いになることは絶対に無いからって、伝言をお預かりしましたので、届けました」 瑞希はすっきりとした笑みと声を賢一に向けた。 「恵美子は?」 「今日は塾。もう先に帰りましたよ」 するとそれに何を感じ、思ったのか、賢一は瑞希の後頭部に手を添えた。 なんだろうと瑞希は不思議に思い、「賢……」と発したときだった。 両手の指で、頬を摘まれる。優しく、しかし痛みは出て…… 「痛い……」 「ふっ」と積んだ瑞希の表情に思わず笑いが出る。眉間にしわを寄せる彼女。 「結構良くなってきたな」 と指を離し、摘んだところを優しく擦る。 瑞希にとって大人な賢一のその仕草は、他人とは違う空気をかもし出していた。
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冷たさを感じる今日、この風は、夏場を感じさせられないほど、程よい心地で、窓を全開にしているクラスは殆どだった。 校内の、保健室も同様、全開にしてある。冷たい風は人の心を穏やかにしていく。 近くの椅子に座っていた有川は保健室のベッドに近づくと、そこで横になっている恵美子の様子を伺いながら、近くの窓を開けた。カラカラカラと音を立てると、直ぐそばにいた鳥がそれに驚いたのか、すぐに去って行った。 「あらら……ごめんなさい」 鳥は帰ってくることはなかった。どこかまた遠いところへ飛んでいってしまった。 ステンレスで出来た手洗い場に行き、手を洗う。下は石で出来ているため、ステンレスによって出される音は出ず、水独特の音が鳴り響く。 タオルで拭き、ベッドとは正反対の向かいにある本棚へ行くと、そこに前に賢一が見つけた参考資料が置いてあり、それを手に取り、あの時の内容のページを開く。 自分たちの名が書かれた、あの解明不可ともいえる新聞の切り抜き。 疑問点は沢山あった。 まず、これの書かれている時代が、今ではなく、ずっと遠い昔である事。自分も生きていない頃だ。 そして、自分たちの名が書かれてあることと、内容自体は然程何でも無いのに、新聞記事にされたその根拠が見つからないと言う事。読んでいくと、別になんでもない内容。いや、書かれてあることは、あのときに起こった事柄と同じだが、こんなミステリアスな事をどうして載せようとしたのか。 年代的にも別に超常現象人気という時代ではない。むしろ、その超常現象に肯定と否定が生まれ、とてもいい争いが大きくなってきたように思えるときだと思われる。そんなときに、このような内容など流したら、学校名が出ているのだから新聞記者が押し付けてくると言うのは想定されるだろう。 ――かの貞子もそうであったように……。 では、誰かが故意的にしたもの? だとしたら、どうして? 「照美ちゃん?」 ふと声がしてその声の主である恵美子のほうを向く。 「起きた?」と微笑みかける。 机に立てかけられているパイプ椅子を取り、自身が座る。恵美子はベッドから起き、足を下ろして有川と側面で向き合う。 「何かあった? 今日は体調じゃないでしょ? 顔色、良いもの」 恵美子は静かに頷いただけだった。2つに分けられた髪が風に吹かれて、束ねられた髪の一部が宙を舞っている。 「こら。何か言ってくれないと、こっちもアドバイスの仕様が無いんだけど?」 「……んいちがね」 「うん。賢一が?」 「まだ、引き摺ってるんだって思って」 「引き摺ってる?」と有川は頭を傾けた。恵美子は瞼を少し閉じかけている。 「賢一、あたし以外の人が、本命だから……」 「そりゃあ、誰だって今付き合っている人が本命じゃないって人、いるわよ。次第に心引かれていくものだったりするわ」 すると恵美子はその有川の言葉を、勢いよく顔を横に振る事で、否定した。 「それでも嫌なの。我侭なのは分かってる。でも、だからこそ不安なの。賢一の好きな人が賢一のほうを向く事は絶対無いって分かっていても、賢一はそれでもその人と一緒にいたいって思うでしょ? それが普通でしょ?」 有川は恵美子のひざに置かれた両手を優しく包み込んだ。 「賢一と、上手く行ってないってわけじゃないのよね?」 「……」 恵美子は昔からそうだった。 何かトラブルが起こると、その原因をトラブルとは無縁のものと一緒に考えてしまう事があった。 過去の出来事を、今起こっている、過去とは関係ない事柄とごっちゃにさせてしまう。 有川は賢一の本命を知っていた。だからこそ、今抱えている悩みとは全然違う、別物だと感じ取ったのだ。 「賢一を信じなさい。賢一と付き合って、恋人になって、賢一が恵美子以外の相手を心配したり、恵美子以外の相手のところに行ったこと、ある?」 彼女は小さく「ない」と呟いた。 「付き合い始めて今に至るまで、ずっと貴方をかばって助けてきてくれたでしょ?」 「でも……。見ちゃったの。賢一が……瑞希とキスするところ」 「え?」 有川は驚いたものの、半信半疑だった。 「何時?」 「今日。保健室に行く前。ボーっとしながら賢一見てたら……瑞希に言付けしてたんだけど、その時にキス、見ちゃった」 だからこんなにも本命と自分との間での格差に悩んでいるのかと、有川はようやく理解した。 しかし、あまり敏感ではない瑞希の性格からして、それは無いだろうと感じていた。今瑞希には、少しながら彼が心に居るからだ。それをいつも見逃さない、心優しい賢一が簡単に傷つけるはずが無く。 しかし、掛ける言葉を失った有川は、ただ、恵美子の頭を撫でる事しかできなかった。 |