小さな声で失礼いたしました、と言い、速やかに退散した彼女を、賢一は間が抜けた表情で見ていた。 あの時の小林じゃない、なんだ? どうなってんだ、一体。 賢一は奈菜が去った後も、その閉じられたドアをじっと眺めていた。この状況を見て、どうして大祐の名が出なかったのだろう。 その疑問が宙を舞っている。硬直した体に気づき、背中越しに皆を見る。しかし、状態は自分と同じ、我を忘れたままに立ちすくむ仲間だった。 「あれが、奈菜? なんか、おかしくない?」 去った後に言葉を発したのは恵美子。 その後もしばらく沈黙が続いた。まるでお互い誰かが何かを発してくれるのを待っているかのよう。 しかし、誰も言葉は思いつかない。誰もがわかっていた。何かがおかしいことを。しかし、それを口にするべきかどうか、も、戸惑いの対象となっていて……。 「非常に別人のようね」とようやく口にした沙紀。 「この場に大祐がいたら、どうなっていたのかしら」 「どうあれこうあれ、あれは小林だ」 そうため息を付きながらも締めくくったのは賢一本人だった。 そして賢一はいきなり立ち上がった。恵美子はまた心配そうに見守る。 「確かめるわけ?」 沙紀が言うと、賢一は頷いた。そして沙紀はフムと考える。 「私もちょっと、不思議に思うことがあるわ。聞いてきましょ」 沙紀は有川の目を見て、了解を確かめると、賢一とともに奈菜の後を追う。 少し歩いたところで、ともに声を上げた。 「おかしいわね」 「あぁ。こうなるとやっぱりあいつしかいない」 「でも、あれが小林さん? あの時の?」 自分に疑問を投げかけるように、賢一に聞く。賢一は壁に背を向けも垂れる。 「訳わかんねぇな」 「大きく捕らえると小林さんが怪しいけれど、細かく分類していくと、全員が怪しいのよね」 「体育のとき、走った姿見たことない」 「走って5秒位で倒れるようだもの。そう彼女にとっては気楽なことじゃないわ」 「でも、あの時の小林と今の小林が同一人物だと確定出来るなら……」
“二重人格”
脳裏に、そう言葉が過った。 それも、重度、の。 事が起きる前、起きた間、起きた後。そして、今。 お淑やかな彼女と、少し荒い性格の彼女。どちらの彼女も彼女であることには間違いない。 「でも……」 沙紀は少し考えた。 「だったら武田君は気づいてたはずよ? だって、仮にも彼は瑞希を好きでしょう。小林さんはそれを見てなんとも思わなかったわけないじゃない? 今回もそんなに瑞希と武田君が関ってたって訳でもない。彼の、瑞希を思う気持ちは、普通のときと変わらなかったずよ?」 パラパラと木の実の揺れる音が当たり一面に鳴り響く。風が強くなってきたらしい。今まで聞こえもしなかった鳥の声も鮮明に聞こえるくらいの大きな波風。 隙間風が足元を冷たくさせる。 「ッ――――! 寒くなってきたな。戻ろうぜ」 賢一は沙紀の腕を掴み、Uターンして保健室へと向きを変えた。 「ひゃ!」 沙紀の声が裏返る。目の前には何十というほどのニンゲンが、2人に身体を向けていた。奥の、端のほうまで隙間無く、2人の行く手を拒むかのように。 あの時と変わらない、青白い目、黒い肌。 「後ろだ!」 と賢一が叫び、振り返る。しかし壮絶なる光景が2人に襲い掛かった。 それらは2人を囲むようにして立ちすくんでいた。 2人に向けられる青白い目は、次第に輝きを大きくさせた。お互いが同時に唾を飲む。 「突っ走るぞ」 賢一が小声で呟く。沙紀はそれを目で確認すると、微妙に頷く。 しかし、沙紀は何かを感じたのか、賢一の袖を静かに引っ張った。 「二手に分かれましょう。貴方は武田君と瑞希を探して。私は有川さんと恵美子さんのほうに向かうわ」 緊急事態を伝えるためだと、わかった。賢一は目を鋭くさせ、口角を上げ微笑んだ。「よし」と言いながら。 お互いが向かう方向に身体を向ける。すると、自然と指輪をつける手同士が組まれた状態となる。 『カチ』 と指輪の触れ合う音。 「Good Luck」 賢一が言う。 「何事もないことを、信じて」 沙紀が微笑み返して言う。指輪を確認する。薄い紫が光をずっと出している。それを怪物に向けると、その向けた所が白い光で覆われ、一つの道を作る。 幻覚なのか、指輪の力なのか。 そして2人は走り出した。
* * 「きゃ! ……ぁ、ぅう……」 疾風で勢いよく飛ばされ、体育館のコンクリート壁に激突する。背中を強打し、咳き込む瑞希。 「う……げほっごほっ……こほっ」 一体どうなっているのだろう、と軽く考え、顔を上げる。 一瞬にして黒くなった生徒ら。あの時のように、青白い目をして瑞希に向けられる。この学園がおかしいのか、香坂市内で起こった謎の光に何らかの関係があるのか。 そういうことを考えている内に、遂に周りは黒化したニンゲンで囲まれてしまっている。 指輪も有川に返しているため、身を守る、相手を攻めることができない。もうおしまいかと思いながらも自分なりの抵抗を試みようとあの時嵌めていた場所を摩る。しかし、それで何かが変わるわけでもない。 リーダー格のような物体が、瑞希の前に歩み寄る。外で砂利道のはずが、何の音もしない。まるで、影が囲んでいるような光景だ。 「……」 瑞希は冷静になろうと心を落ち着かせた。 深呼吸を2回する。目を閉じ、自分が知っている、唯一の呪いである九字を切る。 「臨・兵・闘・者・楷・陳・列・在・前」 すると、真正面から、光線が瑞希に向かって来ていた。それは数十メートル付近で2つに分裂し、瑞希を囲っていた黒い物体を弾き飛ばした。目の前の物体はその光線が近づくにつれて次第に灰色となり、薄れ消えていった。 自分から出たものではないと、判断は出来た。 そして自由となった目の前には、黒い物体がある人物の身体を捕らえていた。辛うじて右腕は自由である。 「武田君……」 黒い物体は彼の身体を上げていく。そしてとうとう、彼の足は地から離れてしまった。 ニンゲンの様な形だったその物体は、次第に巨大な棘々とした怪物へと変化した。瑞希は辺りの状況を見渡す。 「くっ……藍川」 大祐は大声で叫ぼうとするものの、痛みでそれが利かない。自分の呼ぶ声がした瑞希は再度大祐に向かって顔を見上げる。大祐は右手をポケットの中に入れ何かを取り出そうと試みる。しかし、それを掴み取り出した瞬間、垂直にそれは落ちてしまった。 コン、と鈍った音が聞こえた。 「指輪、受け取れ!」 瑞希は直ぐに理解すると、その指輪に向かって走り出した。 しかし、それは直ぐに遮られた。黒の怪物が瑞希の右腕を思いっきり掴む。その弾みで強く身体が倒れてしまった。 そして、腕に凄まじい激痛が瑞希に襲い掛かる。 「あぁああ―――――――――――!」 骨が折れてしまったのだ。 まるで喉から異物が出てしまうのではないかと思うくらい、身体の奥から声を出した。 指輪までまだ30センチ近くあった。如何片方の腕を伸ばそうにも、片方の腕は折れてしまい、その影響で身体の自由は失われる。体中が痺れる。 其れでも尚、黒い怪物は瑞希に襲い掛かる。 じっくりと、微かな振動が伝わる。その度に、微かであろうとも瑞希の腕には非常に堪えることの出来ない激痛が襲う。 一気に汗が出、見る見るうちに青ざめていく。 それを大祐も見ていた。 「藍川! 藍川ぁ! っくそぉ!」 大祐は空いている手で怪物を叩くが、叩こうとする度に透けていく。痛みが自分に跳ね返ってくる。 「どうなってんだよ!!」 何度も何度も叩くが、どうやら自分たちは怪物に触れられないらしく。 「大祐!」 知っている声。 他にも誰か、いたのか? そう思い、声のするほうへ顔を何度も向けるが、突然だったため、明確な位置がわからない。 「こっちだ! 右だ、右」 ようやく確認する。 「賢一さん……」 「破!」 賢一は左手をかざし、怪物に向かってそう発した。すると、疾風のようなものが発せられ、怪物は半分以上消えていった。その光景に大祐は放心状態にあった。言動以上に指輪を使いこなしている彼。 そして瑞希の元へ走っていく。 ようやく大祐を捕まえていたものが無くなり、そのまま地へ落下する。高いところから飛び降りることになれていた彼は、それを楽に行い、すぐさま瑞希の元へと駆け寄る。 「ちょっと痛いからな。耐えてくれ」 まだ瑞希の口から、悲痛な声が洩れていた。そして賢一が瑞希の腕に手をかざすと、何か青白い光が出てきた。すると、折れている部分が何度か波を立てるように音を立てながら揺れ動く。 「あぁ―――ッ……あ、あ……ぅう……」 はぁはぁと眩暈が起こるような違和感。まだ感覚が戻らない。 それが非常に怖く不思議だった。 「もう大丈夫だ。立てるか?」 震えながら荒息を立て、ゆっくり立ち上がろうとするが、視界が歪み、地面に倒れてしまう。そんな彼女を賢一は更に深く身体を下ろす。 賢一は言葉以上に行動が優しかった。言う前に瑞希に手が掛けられていた。瑞希は甘えるようにして賢一に縋り付く。「ごめん」と涙目に言った声が遠くで聞こえた。 大祐は落ちていた指輪を取り、瑞希に渡そうと手を延ばしかけたが、またポケットの中に入れた。 彼の中でまた、不安が過った。
* *
賢一は有川と中原たちが待ってるから保健室へ、と大祐と瑞希を促し、大祐は頷いたが瑞希はそれを拒否した。 「私と沙紀は会うことが出来ない。2人が行ってて」 「腕は大丈夫か?」 「うん。あの時は気持ち悪くてふらついただけだから。もうヘイキ」 賢一は少し考え、大祐がそばにいたら安全だろうと判断し、自分たちの身に起きたことを簡単に説明した。 その内容に大祐と瑞希は驚いたものの、直ぐに平然に戻った。 きっと誰もが予測していたのだろう。また、何かが起きる、と。 それから賢一と別れ、2人はただ暗闇化した廊下をひたすら歩き続けた。時折階段付近になると、その門で何かが潜んでいないかを確認しながら。 時折大祐が自分を見ていることに気づく。 「? 何?」 「え? い、いや、何でも……」 「そぅ。なら……」 初めての居心地の悪さが2人を包んでいる。 隣にいるのが賢一だったら…… お互いがそう思う。しかし大祐は、もし俺の隣に賢がいたら、藍川が危ない……と右腕をポケットに入れた。その瞬間、冷たい金属に触れる。驚くが、ああそうかと小刻みに頷く。 やはり、返したほうが…… 「あ、あの……武田君。ごめん、あの、指輪。ずっと預かったまま……」 察しが付いたのか、今考えていることがそのまま現れ、目を見開く。 「……ぁぁ」 どうにも上手く喋る事のできない瑞希は、とりあえずと右手を差し出す。 2人して俯く。 「わ、悪い」 「え?」 「あの時、地面に落ちただろ。あの黒いヤツが何かしたみたいで、砕けてた」 そして瑞希は大祐の異変に気が付いた。 だからあんなにも言い辛そうにしていたのか、と。 「そっかぁ。ごめんね。ありがとう」 ゆっくりと武田は顔を上げる。瑞希はまだ微笑みながらも俯いている。 「ごめんね。あんなに必死だったのに、受け取れなくて」 そして、瑞希は早歩きで大祐の前を歩きだした。 ――もし、指輪が壊れているって嘘をついてなくてこいつに差し出していたら、もっと気持ちは爽やかだったのだろうか、と何度もリピートさせる。 しかしまた途中で立ち止まる。 「でも、どうしたら良いんだろう。指輪が壊れちゃったら何も出来ない。ちょっと怖いな……」 最後の部分に含み笑いが出た。平気だという言葉の裏に、非常に危険だという信号が鳴っている。盾も矛も無い今の空の自分。どうやって緊急事態を乗り越えられるだろう…。 「藍川。……俺じゃ、ダメか?」 躊躇いがちに、瑞希のほうを向いて大祐は発した。瑞希は大祐が何を言っているのか全然理解が出来ないでいる。 「俺の、責任、だから……」 「……」 「俺が、藍川を、守るよ」 手の中で指輪を握り締め、そう言う。 |